メカゴジラ2部作考 2
先日
映画『 メカゴジラの逆襲 』のDVDを
見返していたとき
以前に書いた記事を思い出しました。
過去の記事
において
『 ブラックホール第3惑星人 』とは
何者なのか?
そのネーミングから
暗喩的意味を考察すると
『 メカゴジラの逆襲 』の
連続する2作には
” アメリカ礼賛 ” という
プロパガンダ を含んでいることを
述べました。
その他に
着目すべきところは
彼らの正体が
1作目と2作目で
容姿が異なるということです。
ここから ” アメリカ礼賛 ” を
導き出すことは難しく
『 ブラックホール第3惑星人 』には
暗喩としての別の意味も
隠されているのではないかと
考えられます。
まず
1作目での正体は
” 猿人” のような容姿です。
これは
1作目で第3惑星人を演じた
草野大悟 氏の印象から
そうなったらしく
それから
これは憶測ですが
宇宙猿人ゴリを演じた
遠矢孝信 氏も
第3惑星人を演じていますが
これも猿人つながりで
何らかの関係が
あったんでしょうかね… ??
それはさておき
その一方で
2作目での彼らの素顔は
ケロイド状に焼けただれた顔の
“ ミュータント人間 ” のように
変わっています。
1作目 は 猿人の顔
そして
続編としての2作目 は
ケロイド状の皮膚をした人間の顔
とくれば
モチーフになっているのは
言わずと知れた
ということになるでしょう。
『 メカゴジラの逆襲 』の劇中において
ブラックホール第3惑星人 の
ムガール隊長 と
先に地球に乗り込んでいた
部下の 津田 が
「我々は東京をつくり変える」として
発展する東京の都市を
高層ビルの一室から見下ろしながら
会話をするシーンがあります。
ここでの台詞で
「 この都会こそ地球人の頭脳そのもの。
汚濁と混乱。
秩序は
常に後から追いかけるものにすぎない。
結局のところ
地球人は自分たちが
何をつくっているのかさえ
わからないのです。」
とあり
この台詞を含めた一連のシーンを見ると
おそらく
“ ブラックホール第3惑星人 ” は
人類のはるか先を歩んでいて
高度な文明社会をもっているようです。
その一方で
「 我々の肉体を取り戻すことのできる
街をつくる。」
「 我々の故郷
ブラックホール第3惑星の
最期が近づいている。」
といった台詞から
自分たちの種族の肉体が
蝕まれていることと
棲む星が末期であることを
知ることができます。
つまり
今の地球人による経済社会が
このまま発展して行けば
いずれは破綻し
ブラックホール第3惑星人 と
同じ轍を踏むことを
彼らは見越しているようです。
政治的な言い方をするならば
暴走しかねない
自由放任な市場経済を排斥して
我々エリートが支配・統制する
国家に変えて
新しい未来社会をつくる。
ということでしょう。
では
モチーフになっていると考えられる
連続したストーリーを
「 ゴジラ対メカゴジラ 2部作 」に
合わせてみましょう。
自滅してしまった現代の人間に代わり
地球を支配したのは
高度な文明をもった猿人だった。
しかし
一部の人間は
ミュータント化して生き延び
彼らもまた秘密裡に
高度な文明を築いていた。
こう考えると
ブラックホール第3惑星 では
2種類 の 支配者的種族 が
存在していて
現代の地球に攻めてきたのは
各々の異なる種族である。
また
“ 猿人 ” の種族 は
屈強な肉体を持っている。
一方
“ ミュータント人間 ” の種族 は
肉体は蝕まれているが
知能は “ 猿人 ” の種族 よりも
優れている。
こういったことから
1作目の『 ゴジラ対メカゴジラ 』での
ブラックホール第3惑星人は
肉弾戦の格闘シーンが多く
かつ
粗暴な印象を受けます。
さらに
“ 猿人 ” の種族 は
自らの肉体が蝕まれているという
ひっ迫感も
自らの星についての
危機感もなく
単純に優位的地位からの
支配・統制目的として
侵略行為をしていると
考えられます。
これに対して
“ ミュータント人間 ” の種族 は
自らの肉体や星について
危機感を持ち
種族が生きながらえる術としての
侵略行為でしょう。
また
戦略的な印象については
1作目より2作目のほうが
より狡猾で知略的な印象を受けます。
我々エリートが未来図を描き
新しい統制国家をつくるという
高尚な計画をもった侵略者の
設定であるならば
「 2作目 」は “ 猿 ” ではなく
より高度な頭脳をもった
“ ミュータント人間 ” が登場した
という理由も頷けます。
こうして
映画『 猿の惑星 』を踏まえて考察すると
もう一つの 暗喩的意味 は
“ ブラックホール第3惑星 ” とは
未来の地球 であり
“ ブラックホール第3惑星人 ” とは
未来の地球人の姿 であることが
導けます。
そしてそれは
文明や科学の発展 の 暗部 を意味した
暗喩的表現であると考えれば
合点がいきます。
つまりここでも
「 ゴジラ対メカゴジラ 2部作 」での
手法である “ 陽と陰 ” の表現が
使われています。
物語を創作するに当たり
主人公に対する強力な敵として
主人公の分身を出す手法は
ヒーローものの常道です。
「 ゴジラ対メカゴジラ 2部作 」にも
その手法が使われています。
そして
現代の地球人 の 分身 ともいえる
未来の地球人 としての
ブラックホール第3惑星人。
さらに
『 メカゴジラの逆襲 』で興味深いのは
ゴジラ と
本作での ブラックホール第3惑星人。
両者の共通点は
同じような
ケロイド状に焼けただれたような
体表面をもった姿をしている
ということです。
彼らの関係も
文明や科学の発展の
代償を受けた者同士であり
“ 分身 ” と
言えるのではないでしょうか。
プロデューサーの 田中友幸 氏が
最初の作品の
「 ゴジラ 」に対して
「 この映画は
ゲテ物などと言われる映画に
したくない。
文明というものを
問い直そうという作品だ。」
引用元:ゴジラはヒバクシャ、悲運背負って
- 宝田明さん語る決意
- 核といのちを考える 核禁条約発効へ(第6回)
: 朝日新聞デジタル( 2021年1月21日 11時00分 )
と発言されたそうですが
ゴジラシリーズが一時休止となる
本作においても
本多猪四郎 氏などを再び招聘し
物語の内容からして
巡り巡ってもう一度原点へと返って
「 文明を問い直す 」という
製作者の意図が読み取れます。
“ 元へと環る ”
この辺りも
『 猿の惑星シリーズ 』的 な
気がします。
なおここで
ケロイド状に
焼けただれたような体表面や
ミュータント化というのは
僕自身が本作から
読み取ったメッセージであり
見る側で各々感じ方が
異なると思います。
言論統制を敷いている国で
政府を非難するような表現があれば
厳しい裁定を受けますが
暗喩的表現を用いて
諸々の社会批判や政治批判を
昇華させて表現することは
文学や芸術の手法としてあることで
それが
文学や芸術文化の発展をもたらした
一因でもあります。
「 ゴジラ対メカゴジラ 2部作 」では
暗喩的表現を用いて
メッセージを発信しているところが
作品の “ 深み ” であり
また
“ セーフ ” なところであります。
仮に
被ばく や 汚染
➡ ミュータント怪物化
となる直球的な表現や
それと思わせるような描写が
あるとすれば
ウルトラセブン 12話
「 遊星より愛をこめて 」や
映画「ノストラダムスの大予言 」
のように
” 封印作品 ” になっていた
かもしれませんよね !!
振り返ってみると
高校生の時分に
国語現代文の授業で
安部公房の赤い繭に苦戦したように
それ以下の年齢の子どもが
この作品から “ 深み ” を
読み取ることは難しく
東宝チャンピオンまつり に
のせるのは
ちょっと重すぎたのでは ??
と,改めて感じました。
〈 参考資料 〉
・ ゴジラはヒバクシャ、悲運背負って
- 宝田明さん語る決意
- 核といのちを考える 核禁条約発効へ(第6回)
: 朝日新聞デジタル
( 2021年1月21日 11時00分 )https://www.asahi.com/articles/ASP1N2QDTP1GPTIL02M.html
以上
読んでいただき
ありがとうございました。